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paradigm shift アインシュタインは間違っていた?

 もし本当だとしたら、科学の常識は根底から覆されます。

 そんなニュースが世界を駆けめぐりました。ニュートリノと呼ばれる素粒子のスピードが光より速かったという実験結果が発表されたのです。

アルバート・アインシュタイン

 現代物理学の柱の一つであるアインシュタインの相対性理論。それによれば、質量を持つ物質は光のスピードを超えられないはずです。ところが、今回の実験結果はそんな相対性理論の教えでは説明がつきません。

 大学時代に物理を勉強し、科学記者として宇宙論や素粒子論の取材をしたこともある私にとっても、にわかには信じがたいニュースです。

 この驚くべき結果を発表したのは、スイスのジュネーブ郊外にあるCERN(セルン=欧州合同原子核研究所)。そのプレスリリースは「実験結果は自然の確立された法則とは矛盾する」と述べたうえで、以下のように指摘しています。

 --- though, science frequently progresses by overthrowing the established paradigms.

  もっとも、科学はしばしば、確立されたパラダイムを覆すことによって進歩するのだが。

 この文章の中に出てくるparadigm(パラダイム)とは、どんな意味を持つのでしょうか。

paradigm(パラダイム)という言葉をバズワードにした米科学史家トーマス・クーンの著書「科学革命の構造」の原書と和訳本

 もともとは「語形変化表」を意味する文法用語で、その後、「模範」「範例」という意味も持つようになりましたが、今から約50年前、アメリカの科学史家トーマス・クーンが「科学革命の構造」(The Structure of Scientific Revolutions)と題する本の中で、科学の進歩を読み解くキーワードとして初めて使いました。

 この本の中では、パラダイムの定義はいまひとつ不明確で、内容にも混乱があるのですが、邦訳された本の裏表紙に載っている説明が比較的分かりやすかったので、以下に紹介してみます。

 「パラダイムとは広く人々に受け入れられている業績で、一定の期間、科学者に、自然に対する問い方と答え方の手本を与えるものである。思考の枠組みとしてのこのパラダイムを打壊し、自然についての異なった見方を導入することこそ革命にほかならない、と著者は言う」

 この説明にあるように、あるパラダイムが覆され、新しいパラダイムが生まれることが「革命」だというのです。こうした大きな変化はパラダイム・シフト(paradigm shift)と呼ばれるようになりました。

 アインシュタインの相対性理論はこの100年間、まさに「広く人々に受け入れられている業績」で、科学者が自然の法則を考える際の「思考の枠組み」、つまり20世紀の科学のパラダイムになってきました。

 今回のCERNの発表が本当だったとしたら、こうしたアインシュタインのパラダイムが壊されることになります。そして、新しいパラダイムが生まれるきっかけになるかもしれません。仮にそうなったとしたら、まさにパラダイム・シフト、トーマス・クーンのいう「科学革命」につながることになります。

 ところで、このパラダイムやパラダイム・シフトという言葉は、その後、拡大解釈され、科学の世界だけでなく、様々な分野で用いられるようになりました。一種のバズワード(はやり言葉)になったわけです。

 パラダイムという言葉は日本の国語辞典にも載るようになっています。例えば、「大辞泉」は「ある時代に支配的な物の考え方、認識の枠組み、規範」と説明しています。

 パラダイム・シフトという表現もあちこちで見かけます。英語のメディアにとっても好みの表現のようで、最近のニュースでは以下のような例がありました。いずれも「大きな転換」とか「革命的な変化」といったほどの意味で用いられています。

 Gilani's visit to Iran signals a paradigm shift in Pakistan's foreign policy

  ギラニ首相のイラン訪問はパキスタンの外交政策の大転換を示している

          (パキスタンのデイリー・タイムズ紙)

 Financial markets have undergone a paradigm shift.

  金融市場では革命的な変化が起きている。

          (アメリカのウォール・ストリート・ジャーナル紙)

 パラダイムやパラダイム・シフトという表現がちょっと安易に使われすぎている気もしますが、これも、はやり言葉の宿命なのでしょう。

 ところで、アメリカの辞書出版社Merriam-Webster(メリアム・ウェブスター)のウェブサイトに「シンプルだけれど、気のきいた言葉」のリストが載っています。日常生活ではあまり使われていないけれど、うまく用いれば「会話を豊かにできる」という言葉を集めたものです。

 なかなか興味深いリストなのですが、この中には、私たちにもおなじみの nuance(ニュアンス=微妙な差異、意味合い)やparadox(パラドックス=逆説)と並んで、paradigm(パラダイム)も含まれていました。

 科学史の用語として半世紀前に登場したパラダイムは、ちょっと賢そうに見える気取った表現として、日常会話の中にも入り込もうとしているようです。

筆者プロフィル

大塚 隆一
1954年生まれ。長野県出身。1981年に読売新聞社に入社し、浦和支局、科学部、ジュネーブ支局、ニューヨーク支局長、アメリカ総局長、国際部長などを経て2009年から編集委員。国際関係や科学技術、IT、環境、核問題などを担当
2011年9月28日  読売新聞)

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