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三笠宮ご夫妻 結婚70年に際してのご感想



 三笠宮さま(95)と三笠宮妃百合子さま(88)が22日、結婚70年を迎え、これに先立ち文書で感想を発表された。

 三笠宮さまは昭和天皇の末の弟で、皇族方で最高齢。オリエント学者としても知られる。文書では「陰になり日なたになり私を助けてくれた」と百合子さまに感謝の言葉を贈られた。

 結婚は1941年12月の開戦の1か月余り前。三笠宮さまはその後、旧陸軍将校として中国・南京に1年間赴任しており、新婚当時を「妻は華族の出身であるが、皇族の生活は一段と厳しく、忙しいから、留守を守っていた労苦は並々ならぬものであった」と振り返られた。

 百合子さまは、公務と5人のお子さまの世話に追われた日々を「70年もたったとは思えません」と述懐した上で、「いつもいたわってくださったおかげで長生きできました」と三笠宮さまにお礼の気持ちを伝えられた。(2011年10月22日付朝刊掲載記事)

◇     ◇     ◇

 【三笠宮さま】

 顧みれば、70年間、陰になり日なたになり私を助けてくれたのは、何といっても妻百合子であった。結婚のとき、私は陸軍大学校の学生だったので、宿題のためにしばしば徹夜したし、間もなく戦争となり、厳しい生活が始まった。

 陸大の研究部部員を務めた後、私は支那派遣軍総司令部の参謀として南京に赴任した。妻は華族の出身であるが、皇族の生活は一段と厳しく、忙しいから、留守を守っていた妻の労苦は並々ならぬものであったに違いない。

 私は帰国後、大本営の参謀などを務めているうちに、敗戦となった。三笠宮家は新しく創設されたために経済的な基盤がなかったばかりでなく、空襲で(やしき)が全焼したため、経済的な労苦はほかの宮家と比べてはるかに大きかった。それを支えてくれたのも妻であった。

 やがて私は東大文学部で勉強することになったが、いろいろな公務もあり、授業に出られないときには友人のノートを借りてきて、夜のうちに妻に写してもらった。それは教室で筆記するより大変だったろう。

 その後、半世紀、私は諸大学の講師を務めながらほかの公務にも出席していたので、妻は親王妃としての公務を果たしながら、5人の子供の世話や教育を一手に引き受けてくれ、しかもそれを見事に果たしてくれたのである。

 今静かに過去の70年を振り返ってみるとき、百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである。

 【同妃百合子さま】

 昭和16年秋思いも掛けぬ御縁で宮家に上がった何のわきまえもない18歳の私を、宮様のお母宮様(貞明皇后)、お兄宮様方(昭和天皇、秩父宮様、高松宮様)、お姉君様方に温かく迎え入れていただいたことは有り難いことでございました。わからないことが多く、貞明皇后にいちいち教えていただいておりましたから、昭和26年に突然崩御の折は本当に悲しく心細い限りでございました。戦中、戦後の物資の乏しい頃で何もお尽くしできなかったことは今も心が痛みます。

 結婚後間もなく戦争が始まりだんだん空襲がひどくなり、住居も焼夷(しょうい)弾で全焼、そして敗戦。終戦後の混乱期が続きました。世の中が落ち着いてくると種々の行事が増して外出、旅行も多く、この間に5人の子供に恵まれましたので、毎日時間に追われて暮らしておりましたから、70年もたったとは思えません。

 余り頑健でない私を、いつもいたわってくださった宮様のおかげで今日まで長生きできましたこと感謝の言葉もございません。

2011年10月22日  読売新聞)
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