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『草原の風』 宮城谷昌光著

評・山内昌之(歴史学者・東京大教授)

日本のリーダーの鏡戒に

 今から2000年ほど前になる。前漢の高祖劉邦(りゅうほう)末裔(まつえい)として漢室を再興した男の物語である。

 後漢の始祖、劉秀(りゅうしゅう)光武帝の人づかいの巧さは草木から学んだ、と学友にして同志の朱■(しゅゆう)は述べている。

 皇帝になった者が見る光景は、見渡す限り草しかない原、というものではないか。草が人民であれば、木は臣下である。木が(たか)くなり、生い茂れば、皇帝の視界はせばまり、天からの光も届かなくなる。そこで、皇帝は必ず草原を見る高さにいるべきなのだ。著者は、「いま、草原に風が吹いている」と書き、その風は天が吹かせているようにも思われるが、もしかすると草が風を起しているのかもしれないと言う。劉秀はこのように考える男ではないか、と著者は登場人物にも想像させるのだ。

 若い時分には平凡でありながら、商才にも()け人好きのした劉秀は、やがて百万の敵兵にもたじろがず、寡兵をもって前漢の簒奪(さんだつ)者・王莽(おうもう)らの大軍をさんざんに破っただけでなく、旧敵を次々に許して王となり、皇帝にまで上りつめた。この空前絶後の寛容性と包容力をもった王者を小説として描いた著者は、劉秀成功の秘訣(ひけつ)を、倫理経学(けいがく)よりも歴史に関心が高く、倫理の俎上(そじょう)に乗りにくい機微をもつ「人のにおいのする正義」を求めたあたりに見出すようだ。主人公は抽象や理屈でなく、あくまでも具体と人間が好きなのだ。劉秀は若い頃よく歴史書を読んだが、それは書物のなかの事柄が未来にも生じるのではないかという思いで理解したからだ。「歴史書も、未来書であり予言書でもある」と。

 こうして若き日の劉秀は、歴史から「訓誨(くんかい)」を引き出して、自身の血肉とした。著者は、歴史がいまを生きる者にとって鏡戒(きょうかい)となるという例を小説のあちらこちらで物語としてまとめている。鏡戒とは、あきらかないさめ、という意味である。ある時、力をつけた寇恂(こうじゅん)が自分と一族を劉秀の軍に加えてほしいと懇願したのは、前漢の高祖劉邦に疑われた重臣の蕭何(しょうか)のひそみにならったからだ。劉秀はとにかく歴史をよく知っている。しかし、歴史書は事実の羅列ではなく、あからさまな訓戒の書でもない。著者は、「読み手により、あるいは、読み方により、深みを増すのが歴史書であろう」と劉秀の心のうちを洞察している。

 『草原の風』を読む楽しさは、後漢書に由来する熟語や金言が巧みにちりばめられている点だ。あるとき、劉秀の周りから人びとが去ったとき、「疾風にして勁草(けいそう)を知る」と語った。疾風が吹いて、はじめてどの草が(つよ)いかが分かる。この名言は、困難に遭ってはじめて人の価値が分かるという詩趣にあふれた意味にほかならない。また、劉秀は姉が宋弘を好きなのを知って一肌ぬごうとするが、すでに妻がいた宋弘に拒絶された。「貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠(そうこう)の妻は堂より下さず」と。貧しく(いや)しいころの友人を忘れてはならず、ひどい粗食を共にして苦労した妻を正室から()うことはできないというのだ。「(こと)、かなわず」と姉に語った劉秀の言葉がまた良い。

 劉秀は人柄だけで天子になれたわけではない。事に臨む慎重さと周到さも並はずれていた。()る戦闘で朱■(しゅゆう)が油断から緊張感のない発言をしたとき、劉秀は儒者を引き合いに出して、自我や自尊をもつ者は自分の考えていることや行なっていることに勝る考えと行動を相手がするはずがないときめつける悪弊を批判する。「だが、戦場は敵と協調する場ではない」と厳しく(おご)りをたしなめるのだ。温和な日常とはまったく別人の感がある。実際、生死の境を分ける戦場でしばしば劉秀は正しい判断を下して味方を死地から救った。また、或る時は、内通者や反逆者が誰かを知りうる手紙を山積みにした上で火をつける予想外の行動に出た。天子になるべき人物の器量をよく示している。『草原の風』は、いま日本人が求めているリーダーのあり方を考えさせる小説ともいえるだろう。

 ■=ユウ。漢字は示に右

 ◇みやぎたに・まさみつ=1945年、愛知県生まれ。2000年司馬遼太郎賞、01年『子産』で吉川英治文学賞、04年菊池寛賞。

 中央公論新社 上中下各1600円

2012年1月10日  読売新聞)

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