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1月の店主は磯崎憲一郎さんです

先人が語る具体的な記憶


 『スティーブ・ジョブズ』を読んで、改めて考えさせられたのだが、伝記とはいったい何なのだろう? 例えばジョブズが若い頃インド放浪の旅から戻ってきて両親と空港で再会する、次の部分。

 「僕は髪の毛を()り落としていたし、着ていたのはインドのローブだし、肌は日焼けで濃い茶色になっていた。だから、すぐ脇を何回も行ったり来たりしても、そこに座っているのが僕だってわからなくてね。やっと母が気づき、『スティーブかい?』『ただいま』ってなるまで、5回も通りすぎたかな」(1巻、93ページ)

 1970年代のアメリカ西海岸であればいかにも起こり得たであろう一場面のような気もするが、少々大袈裟(おおげさ)なのでジョブズらしい作り話なのかもしれない、とも思える。しかし恐らく、伝記において一番重要なのは真偽ではない。さもありなんと読み手に思わせてしまう具体性の持つ力とそれを支える文章の強度こそが、伝記という文学を成り立たせる。

 伝記好きなのでもし私が書店を持つのであればそこには伝記や自伝が多く置かれる(はず)なのだが、そもそものきっかけは中学時代に読んだ『ビートルズ』だった。草思社から出ていた初版本を図書館から借りて繰り返し読んだ。あれから30年以上が過ぎた今でも、プロ初契約のときにポールは風呂に入っていて遅刻したとか、レコーディング中の伴奏のない4人の歌声は調子外れだったとか、いくつかの細かなエピソードは私の中に残っている。傍線でも引きたくなるような教訓的な言葉や人生観などがあっさりと消え去っていくのとは対照的に。

 ところで、ガルシア=マルケスの自伝『生きて、語り伝える』を読んでいて虚を()かれたことがある。マルケスの故郷の村は川のほとりにあって「その川床にはすべすべになった岩が、白くて大きくてまるで先史時代の卵のような岩がごろごろしている」(15ページ)と書かれているのだが、それは正しく『百年の孤独』冒頭のマコンドの描写そのものだった。考えてみれば当然のことではあるが、作家の人生もまた具体的な過去の記憶で成り立っている。この本のプロローグにはこういう言葉がある。

 「人の生涯とは、人が何を生きたかよりも、何を記憶しているか、どのように記憶して語るかである。」

 いそざき・けんいちろう 1965年、千葉県生まれ。2007年、「肝心の子供」で文芸賞を受賞しデビュー。09年、「終の住処」で芥川賞。昨年、『赤の他人の瓜二つ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞。商社マン生活の傍ら執筆を続ける。

店主の一冊

●『スティーブ・ジョブズ1、2』(ウォルター・アイザックソン著、井口耕二訳、講談社、各1900円)この本は天才が回想する人生の場面であって、イノベーションを生み出す秘訣(ひけつ)や経営の極意を読み取ろうなどと思ってはいけない。

●『ビートルズ 上・下』(ハンター・デイヴィス著、小笠原豊樹・中田耕治訳、河出文庫、各1200円)数あるビートルズ伝記本の中でも最高。40年に(わた)る増補にも頭が下がる。

●『生きて、語り伝える』(G・ガルシア=マルケス著、旦敬介訳、新潮社、3600円)「人生と文学は内容的に何が違うのかといえば単に形式が違うだけだ」これも同書中の言葉。

●『ナボコフ自伝 記憶よ、語れ』(ウラジーミル・ナボコフ著、大津栄一郎訳、晶文社、2600円)帝政ロシア時代の余りにも幸福な少年期を、作家は超絶的記憶力で描写する。

●『フランツ・カフカ』(マックス・ブロート著、辻■(つじ・ひかる)・林部圭一・坂本明美訳、みすず書房、品切れ)カフカは「破壊しがたいもの」の存在を信じて揺らぐことはなかった!

 ※丸善丸の内本店(JR東京駅前)の2階で、近日中に磯崎憲一郎さんの「空想書店」コーナーが登場します。

■=漢字は王に星

2012年1月17日  読売新聞)

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