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企画・連載
家庭面の一世紀 関東大震災

(6)混雑回避 食堂にサンプル

ガラス棚の中に並ぶ料理のサンプル。関東大震災を機に百貨店などに広がった(1930年1月1日の記事)

 外食店のガラスケースに並ぶ料理の見本。今では当たり前になったこの形が広まるきっかけは、関東大震災だった。

 1923年(大正12年)10月30日の家庭面(婦人欄)に「日本橋を浮き立たす白木屋の白亜館」という見出しがある。白木屋は、東急百貨店の前身で、震災で日本橋の本店が全焼した。記事は、焼け跡に新たに2階建てを新築し、食堂も設けて、11月1日から営業開始と伝えている。

 社史「白木屋三百年史」によると、急ごしらえのこの食堂で「初めて飲食物見本陳列を行った」という。食堂の面積が焼失前の8分の1に減り、客がメニューを見て、注文しては時間がかかる。当時の支配人がニューヨークの総菜店などを視察した経験から、ケースに食品見本と値段を並べ、食券を買う方式を採用。売り上げが4倍に伸び、「5、6年後には東京市中一般に普及するようになった」と記す。

 30年1月1日の記事「食堂サンプルの行方は」で、その広がりぶりがわかる。各百貨店や大衆食堂、レストランまで「近頃は皆ガラス棚の中にその日のごちそうを並べている」。サンプルといっても模型は、アイスクリームと刺し身だけ。大半が現物の料理で閉店後に廃棄されたという。

 焼け跡から広まった人気メニューもある。23年12月16日の家庭面には「朝子さんが牛どんで3000円もうけ、新宿に(うなぎ)屋」。哲学者伊藤証信の妻がバラックで牛丼屋を始めて大当たりしたと伝える。

 「天下をあげて食った『牛どん』」(23年12月10日)は、「震災直後唯一の美食」として牛丼が大人気と紹介。1日に3000杯を売る繁盛店も登場し、「主として労働をする人などの常食とされたものもにわかにいわゆる上流階級の口へ行って、以来、いまだに至るところにはやっている」

 震災で料亭や洋食店などが壊滅的な被害を受けた。その中で「一流料亭が簡易食堂を開く」(同年9月22日)「(市営の)公衆食堂の大繁盛」(同年12月28日)と、安価で気軽な店に人気が集まった。

 食文化に詳しい東京家政学院大の江原絢子名誉教授は「震災の被害の中から工夫が生まれた。百貨店の食堂を家族連れが利用するなど、震災を機に外食の大衆化が進んだと言えるのでは」と話す。

2011年8月31日  読売新聞)

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