(8)集合住宅の暮らし提案
関東大震災後、アパートなどの集合住宅が、都市の新しい住まいとして提案された。建設を進めたのは、震災翌年の1924年(大正13年)5月に設立された財団法人同潤会だった。
24年7月24日の読売新聞朝刊「住宅建設の方針が決した 同潤会の評議員会」は、長屋型の小住宅とアパートを計2700戸建設する方針で、託児所や浴場、簡易食堂といった様々な交流スペースを提案したと伝えている。
同潤会は、復興を目的に各国から寄せられた義援金をもとに発足。東京と横浜の計16か所に、当時数少ない、耐震性と耐火性に優れた鉄筋コンクリート造りのアパートを建設した。多様な共有空間と、エレベーターなどの最新鋭の設備を設けたのが特徴。小住宅の貸し出しが始まったことを報じる25年4月11日の記事は、「住宅の諸設備が理想的に出来ている」。
26年9月29日の家庭面(婦人欄)は、同潤会アパートの人気ぶりを伝えている。「まだ出来上がらないうちから8倍も10倍も申込者が殺到して非常な評判であった」。安全で、都会生活に必要な設備があり、洋館で堂々としていることなどが理由。貸し出しが始まったアパートについて、「洋式生活に不慣れな日本婦人のことで毎日珍劇が演じられ、笑話の種が尽きないそうだ」と記す。戸惑いながらも希望を持って暮らし始めた住人の様子が伝わってくる。
中でも東京の大塚女子アパートは、唯一の女性専用だった。
「女ばかりの天国を創造するのです」。28年12月の家庭面は、アパートが翌春起工することを高らかに伝えている。4階建て(実際は5階建て)で、地下に化粧室、浴場、食堂、娯楽室などを設け、屋上で星を眺めながら散歩ができる。事務員などアパートで働く人もすべて女性を採用するという。完成すると、単身の「職業婦人」で盛況となった。アパートは2002年まで使われ、翌年解体された。
同潤会の住宅は、被災者支援という社会的使命から、住まい探しが困難だった単身者や女性に目が向けられた点も新しかった。
「渡辺都市居住研究室」を主宰し、大塚女子アパートについて研究する渡辺喜代美は「住人同士が自然と交流できる共用空間が設けられ、孤立化を和らげる居住環境ができていた」と話す。(敬称略)
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