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企画・連載
家庭面の一世紀

(17)労働状況 日米差に暗然

 1921年(大正10年)7月、市川房枝は読売新聞のアメリカ特派員となった。渡米直後の生活は「子供にかえったような楽しい日」だった(「人間の記録 市川房枝」)。

 市川は、一般家庭に住み込み、お手伝いさんとして働き給料をもらいながら、昼は学校へ通うようになった。当時のアメリカにはこうした日本人留学生がいて、一般に「スクールボーイ」と言われた。

 市川は英語を学ぶために小学3年生に編入した。小学生から「フサエー」と呼ばれ、友人になった。

 恵まれた自分の暮らしと比較して、市川は母国の同輩たちを思いやることを忘れない。「よみうり婦人欄」に書き送っている。

 「アメリカの女中たちは月給百円以上で休息の時間も十分にあって学校に行っている」「日本の女中は食べ物は冷や飯に残り物で女中部屋のない人、日曜どころか一月に一度も休めない人が多い。全く奴隷だとは前から思っていましたが、こちらを見て特にその感を深くします」

 時間を見つけては本を読んでいる市川を見て、住み込み先の主人は「あなたは政治家になる」と言った。参政権のない当時の日本人女性には、あり得ない夢だった。

 24年1月にサイベリア丸で横浜港に帰国。薄暗い三等船室で、市川は「日本の婦人の教育を向上させることが必要であり、シチズンシップを行う(公民権を行使する)ことが最も近道であると思います」と、出迎えた読売記者に語った。

 その後、読売新聞で海外の女性の政治運動を紹介するとともに、国際労働機関(ILO)東京支局に勤務、日本国内の女性の労働状況を視察した。

 製糸工場を視察した際、「自殺する女工が相当数あると聞かされ、一同暗然とした」。いちばん嫌なこととして「夜ばい」をあげた女子工員がいた(「市川房枝自伝戦前編」)。これが母国の女性の実態だった。

 (敬称略。引用文は仮名遣いなどを改め一部省略)

2009年5月28日  読売新聞)

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