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陸自日誌

(16)立ち直る日 願って

日誌筆者 須藤彰・政策補佐官に聞く


 連載「東日本大震災・陸自日誌」原文の筆者、須藤彰・陸上自衛隊東北方面総監部政策補佐官(37)に話を聞いた。

 ――なぜ日誌を始めたのか

 震災直後から各方面に安否を尋ねられ、防衛省などの関係者に現状を知らせようと思ったのが始まり。3月16日から、公式の業務報告とは別に私信のメールで送り始めた。総監部には非常用電源があり、停電でもパソコンを使えたので、昼間に現場で見たことや感じたことを小さな手帳にチョコチョコ書き込み、深夜に戻ってからまとめた。

 ――防衛省キャリア官僚からの赴任だったが、現在の陸自政策補佐官としての本来の仕事は何か


 被災地支援で現地入りする米軍が山形空港を使えるようにするなど、現場の自衛隊と、自治体や他省庁・組織との調整が私の仕事だ。山形の件では、北沢防衛相がすぐに山形県知事に電話してくれるなど、大臣も本省も素早く動いてくれた。

 震災後は、総監部の執務室で寝泊まりした。初めて仙台市内の自宅で寝たのは4月17日。長女と長男の中学、小学校の入学式はすでに終わり、父親として申し訳なかったが、各被災地で大変つらい状況の方々に会う日々で、制服やランドセルを見ても感慨深かった。その晩、震災後初めてラーメンを食べた。食事に異様なまでの執着心が生まれており、朝から興奮した。

 ――今回、災害派遣としては初めて陸海空の部隊を一元的に運用する「統合任務部隊(JTF)」を編成したが、どう機能したか

 指揮官の君塚栄治・陸自東北方面総監の下、毎日午前と午後の8時から、陸海空、そして米軍でミーティングを行い、現場の状況や自治体の意向などをもとに活動計画の調整を行った。当初は毎回3時間近くもかかったが、次第にスムーズになった。陸海空の人数比は6対2対2だったが、総監は陸だけの考えを通そうとはせず、それぞれの良い面を引き出したと思う。

 ――米軍との協力について

 米軍はソフト面に力を入れていた。小学校の「クリーンアップ」作戦でも、子供たちと一緒に作業するなど、一体感を通じて被災者を元気づけようとしていた。同じ釜の飯を食った仲間として意気投合したので、海兵隊が帰る時は寂しかった。

 ――日誌にははしばしに被災者への思いがにじんでいる

 避難所では、元気に見える子も両親が亡くなっていたりして痛々しい。子供を亡くした親も、想像を絶する思いを抱えていると思う。私も隊員たちも、残念ながらできることはそう多くないが、生き残った人々の強い思いを受け止め、一日も早く立ち直る日が来るよう心から願っている。(聞き手・望月公一、写真も)
(2011年6月17日読売新聞掲載)

 ◇須藤 彰(すどう・あきら) 1998年東大文卒。防衛庁(現防衛省)入庁、英ケンブリッジ大国際政治学部修士修了、運用支援課部員、陸上自衛隊東北方面総監部政策補佐官。東京都出身。

 【関連記事】被災地で自衛隊の人たちは何を食べていたのですか?

2011年7月1日  読売新聞)


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