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『言わなければよかったのに日記』 深沢七郎著

評・小泉今日子(女優)

ユーモアに救われる

 しばらく本を読まなかった。いつも読んだ本をノートに書き出して記録しているが、私の読書ノートの3月と4月には1冊も書かれていない。

 4月から始まる舞台の稽古の日々だった。あの日はたまたま稽古がお休みで、のんびりした午後を自室で過ごしていた。揺れ始めた途端に停電になり、復旧したのは12時間後。テレビもラジオもパソコンも使えず情報が断たれた。携帯電話も電池が切れそうで無駄に使えない。日が暮れると暗いし寒いし、布団に潜って朝になるのを待っているしかなかった。そして、朝目が覚めてテレビをつけた時に目にしたあの映像。

 余震が続く中、稽古は再開された。昨日まで何も思わずに口にしていたセリフの意味ががらりと違って感じられた。ちょっとした表現が妙に生々しくて口にするのが怖かった。言葉は生き物なのだと改めて思った。こんな時に演劇なんて必要なのだろうか? それでも私達はやるしかない。やり続けたら幕が開いて、気が付けば千秋楽を迎えていた。

 5月になってやっと本が読みたいと思った。ずっと前から持っていて、いつか読もうと思っていたこの文庫を本棚から選んだ。『楢山節考(ならやまぶしこう)』で作家デビューした深沢七郎が昭和の文豪たちとの交流を(つづ)った『言わなければよかったのに日記』。そのおおらかなユーモアに私は救われた。正宗白鳥の家には大きな池があって白鳥が泳いでいると思い込んでいたり、石坂洋次郎の家の庭を木に登って外から(のぞ)いてみたり、小さな子供みたいな好奇心で人や世の中を見ているのだと思った。他にも井伏鱒二、村松梢風、伊藤整、武田泰淳などが登場するのだが、とんちんかんな質問をしたり、知ったかぶったことを言ってしまった後悔がこの本なのだ。どのエピソードもユーモアたっぷりで、私は何度もくすっと笑ってしまう。

 震災以降、テレビもネットもほとんど見ていなかった。出来るだけ耳を塞いでいたかった。信頼できる言葉だけを探して肩に力が入っていたようだ。昭和の文豪たちが時を越えてやって来て私の肩を優しく()(ほぐ)してくれたような読後感だった。言葉はやっぱり楽しいものでもあるのだ。

 ◇ふかざわ・しちろう 1914〜87。作家。山梨県生まれ。著書に『楢山節考』『みちのくの人形たち』など。

 中公文庫 629円

2011年8月22日  読売新聞)

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