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前向きとノーテンキの差

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抜糸を終え、ギプスも軽いものに変わった松井秀(22日、ニューヨークで)=清水健司撮影

 自宅マンションの室温が少し高くなった。ニューヨークの気候のせいじゃなくて、全身の毛穴が四方八方に熱をまき散らしているからだ。苦悶(くもん)の表情は、左手首の痛みと無関係。筋肉が負荷に耐えようと、悲鳴を上げたのだ。

 神経と筋肉のつながりを重視し、体の動きにキレを与える狙いで長年、取り組んできたトレーニングがある。「(指導する)先生が日本から来てくれた」21日、これを本格的に再開した。午前9時ごろに起床し、同11時から約1時間、体をいじめる。昼食、休憩を挟んで夕方に1時間、また鍛える。「左手を地面に着けないこと以外、けがする前と同じメニューだよ」

 夜、ヤンキース戦のテレビ中継を眺めながら、テーブルの上に積んだ小魚を口へ放り込む。効率良くカルシウムを吸収するため、ビタミンやコラーゲンの摂取とともに、何杯も牛乳を飲む。ウナギの骨をバリバリとかじる。画面に映し出される世界へ、1秒でも早く加わると誓い、未来だけを見つめている。

 「ドクターに『骨、折れてます』って言われてね。すぐに『復帰へのプランは、どうすっかな』と考えた」らしい。プラス思考は天性の能力か――。

 「いや、前向きになるって、けっこう難しいと思うんだよ。ノーテンキとは根本的に違うしね」

 あえて過去を振り返るなら、連続試合出場が止まるまで、「おれの中に二人の松井秀喜がいた」そうだ。

 まず、「チームが勝つための力になりたいと、本来の目標を追う自分だよね」

 ひと息、ついた。

 「そんで、『記録を続けさせてやりたい』と気遣う人たちにこたえようとする、もう一人の自分。こっちはね、記録にこだわって無意識のうちにけがを恐れながらプレーするとか、チームにとってのマイナス部分を生んだケースが、あったと思う」

 手術後の会見。「(記録継続を)サポートしてくれた方々の気持ちを考えると残念ですが、ぼく自身は、そうでもないです」と乾燥した声で言葉を並べた。

 周囲の期待を背負った「もう一人の自分」は存在する意味を失い、ふらりと姿を消した。松井秀はやっと肩の荷を下ろせた――。

 実のところ、この解釈は核心を突いていない。歯ぎしりするぐらい悔しくて、身もだえするほど切なくて、「そんな感情も確かにあったよね。『もう一人の自分』とはいえ、すごく大事にしてたし……。けど、吹っ切らなきゃなんないから、ああやって(記録に対し冷たくして)みせたのかもしれない」

 さらに、「いずれ『もう一人の自分』は帰ってくるんだよ」と苦笑した。どんな価値観を携えて戻ってくるのか、すでに知っているという。

 もう一人の背番号「55」は、「前向きとノーテンキの違い」に関するカギを握ったまま、旅に出ている。記者は“彼”を捜し当て、次回に登場してもらうことにした。(田中富士雄)

2006年5月31日  読売新聞)
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