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幻の“控え直訴”計画

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必死の形相で本塁をねらう松井秀=清水健司撮影

 ニューヨークのマンションで目覚め、「お昼、和食がいいな」と思い立った。地区シリーズ敗退から一夜明けた8日、近くの日本料理店へ向かう。シェフお薦めのサンマにはしを伸ばしながら、便利な時代に生きていると感謝した。

 好投手に抑えられて唇をかんだ日、「悔しくて、しょうがないけど、時間がたつと『素晴らしい勝負をありがとう』って考える」。

 幸運な安打を記録したら「野球の神様、ありがとうございますと思う」。

 戦いの後、グラブなどの道具に「心の中で礼を言う」し、声援を送るファンに「いつだって頭を下げている」。

 苦痛を味わったとき、慢心が芽生える危険を察知したとき、幸せに慣れてしまいそうなとき、あらゆる身の回りの現象に感謝すれば、「前向きで謙虚な気持ちを保てる」らしい。

 ちょっと衝撃的な、あの告白の真意は「感謝」をキーワードに掘り当てられるだろうか。起用についての是非を口にしない男が、3戦先勝の同シリーズで1勝2敗と追い込まれ、トーリ監督へ“直訴”することを決断した。第4戦を制し、最終戦までもつれた場合は先発メンバーから背番号「55」を外すよう、自ら進言するつもりだった。

 第5戦、タイガースの先発投手はロバートソンと予想されていた。過去のレギュラーシーズンで通算11打数3安打だが、「ボッテボテのヒットばっかり。内容は、完璧(かんぺき)にやられてた」そうだ。「彼には全然、いいイメージがない。監督に『ほかのバッターを使う方がチームのためになる』と告げようって。『代打でも何でも、おれは備えてるんで気にしないでくれ』って」

 弱気だとか逃げだとか、そんな風に薄っぺらな批判をするのは簡単。しかし、続きに耳を傾けてほしい。

 「そりゃ出たいよ。出ろっつうなら喜んで行く。打てる可能性もあるし、闘争心は十分。けどさ、負けたら終わっちゃうんだよ。その一日だけプレーできないことより、この先が消えちゃう方がつらい。だから、ヤンキースは少しでも勝つ確率の高い道を選ぶべきだと思ったの」

 第4戦を落とし、実現しなかった指揮官への“直訴”計画を、松井秀は「単なる確率論。勝ってこそ、自分のプレーするチャンスが増えていくし」と、あっさり片付ける。

 それだけか。

 左手首の骨折から復帰を果たした夜、32歳の外野手は「グラウンドに立つという当たり前の日々。こんなにもうれしくて、ありがたいのだと(けがが)改めて気づかせてくれました」と述べた。

 大詰めの晴れ舞台で、徹底的にチームを優先した。再びフィールドに戻れたという事実に対して、感謝の表現を試みたのではなかったか。

 「考えすぎだよ」と笑われたけれど、結構、的を射た指摘だったと記者は勝手に納得している。

 荷造りを始めた。「来年のキャンプの夏服なんかね、『あれとこれを持っていこう』と用意したりね」

 キャンプ?

 夏服?

 「当然でしょ。4か月後にはタンパだしね。すぐだよ、すぐ。何事も早めに準備しとかなきゃ」

 まだ冬の足音が聞こえてきたばかりなのに、もうフロリダの太陽を脳裏に描いている。(田中富士雄)(おわり)

2006年10月11日  読売新聞)
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