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マックからマックへ

原田泳幸(はらだ・えいこう) 日本マクドナルドホールディングス 会長兼社長兼CEO 63歳

 <外資系のコンピューター会社を振り出しに、転職を重ねた>

 最初に就職した外資系のコンピューター大手では、システム開発を担当し、納期や性能などの面で理不尽な要求との戦いの連続でした。しかし「やればできる」という信念が身に着いた8年間でもありました。

「技術屋」脱皮

 1980年ごろに開発部門が縮小されたので、別の情報技術(IT)企業に転職しました。配属されたのは営業本部。当時は「世の中はエンジニアを中心に回っている」と思い込んでいたので、すぐに辞表を書きました。しかし慰留され、「技術屋」から脱皮するきっかけになりました。

 <米アップルの日本法人で頭角をあらわす>

 スカウトされてアップルコンピュータジャパン(当時)に移ったのは90年です。マーケティング部門の責任者になりました。

 当時、日本でのアップルのパソコン年間販売台数は5万5000台。100本もなかった日本語版ソフトを1500本に充実させるなどして80万台超に増やしました。日本でのシェア(占有率)も倍増しました。これが評価され、96年に米国本社の副社長に抜てきされました。

 しかし、マイクロソフト(MS)の基本ソフト「ウィンドウズ95」との競争に敗れ、米アップルの業績は悪化していました。安売り競争のために販売店に多額のリベートを出し、その結果、利益を確保できず社員をリストラしていました。

 <共同創業者のスティーブ・ジョブズ氏と立て直しに取り組む>

 「こんなひどい経営はあってはならない」と思い、97年に辞表を出して帰国しました。ところが、1週間後に役員が来日して「日本法人の社長に」と口説かれました。

 日本に3000店あった販売店を100店に絞りました。残った店には客が集まり利益が上がる仕組みでしたが、販売店は反発し、脅迫状も来ました。

 米国の暫定・最高経営責任者(CEO)に復帰したジョブズ氏には「美しいデザインと使いやすさが、アップルが生き残る道だ」と訴えました。ジョブズ氏はさすがで、後にパソコン「iMac(アイマック)」や携帯音楽プレーヤー「iPod(アイポッド)」などを送り出しました。

 <もう一つの「マック」に転身した>

 ヘッドハンターから、日本マクドナルド(当時)のCEOにどうかとの声がかかりました。「もっと消費者に近い商品を売りたい」と思っていたので、話があった時点でイエスという気持ちが9割はありました。

 2001年ごろに「デフレ時代の勝ち組」ともてはやされたブランド力は安売りで傷つき、03年12月期連結決算で2期連続の税引き後赤字に陥るなど、どん底の状態でした。

基本に立ち返る

【約40年前】日本NCR大磯工場でシステム開発を手がけていたエンジニア時代

 立て直すために最初に打ち出したのは基本に返ることでした。「商品の品質、サービス、清潔さ」の向上の徹底です。新規出店をやめ、既存店の改装や人材育成に投資を集中しました。

 04年12月期決算で黒字転換し、05年からは「100円マック」や「えびフィレオ」など新メニューの投入、24時間営業化など、新たな顧客の取り込みを進めました。10年には不採算の433店舗を一気に閉めました。

 今も、週に3回は店舗に立ち寄ります。「いつも行列ができて繁盛しているね」というお客様の声を聞くとゾッとします。行列ができるファストフード店には何か問題があるからです。

 どん底の時の社長は、業績が上を向きさえすれば評価されます。従業員が一丸となって取り組んでくれた結果、就任後の8年間で既存店売上高は35%も増え、そこそこの評価をいただいています。ただ、マクドナルドを一段と成長させられるかどうか、これからが正念場だと思っています。(聞き手 寺村暁人)


(略歴) 1948年、長崎県生まれ。72年東海大工卒。日本NCR、横河・ヒューレット・パッカード(当時)、アップルコンピュータ(同)などを経て2004年2月、日本マクドナルド(同)最高経営責任者(CEO)。「不健康な体では仕事ができない」が信条で、トライアスロン大会出場を目指す。

《こんな会社》

 貿易会社「藤田商店」の藤田田(ふじた・でん)社長が、米国のハンバーガーチェーン、マクドナルドを日本で展開する権利を取得。1号店は1971年、三越銀座店にオープンした。藤田氏は2003年に退任。フランチャイズ店を含めた全店売上高は5427億円(2010年12月期)で外食産業の国内トップ。

2012年2月3日  読売新聞)

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