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基礎からわかる原子力

(上)核の熱、蒸気タービン回す

 東日本巨大地震で被災した東京電力福島第一原子力発電所の事故では、大量の放射性物質の放出が続き、市民生活や経済面への影響は避けられない状況だ。一方で原発は日本の総発電量の約3割を支え、現代生活を維持するには欠かせない。原子力とどう向き合ったら良いか、3回に分けて伝える。まず、原発とはなにか、仕組みや開発の経緯から見てみよう。

どうやって発電

 そもそも原発は、どうやって電力を生み出しているのだろうか。

■大量の水を沸騰

 やかんに、半分ほど水を入れて火にかけてみよう。しばらくすると水が沸騰し、注ぎ口からは勢いよく蒸気が噴き出してくる。

 東京電力福島第一原発にある沸騰水型の「原子炉圧力容器」は、例えるならば大きなやかんだ。

 厚さ13〜30センチの鋼鉄製で、重さは動物園でおなじみのインド象なら約100頭分、約500トンに相当する。

 高さ約20メートル、幅6メートルのやかんが大量の水を沸かし、圧力容器内に収まりきらなくなった高圧の蒸気を次々に外に押し出す。蒸気は配管を通って、大きな羽根車(タービン)を回して発電機を動かす。

 タービンは、原子炉の入った建物に隣接する「タービン建屋」のコンクリートの床に置かれている。建屋は4階建てくらいの体育館のような空間だが、地下に「復水器」と呼ばれる蒸気を水に戻す装置が埋め込まれている。

 復水器にはパイプが張り巡らされ、海から取水した冷たい海水がパイプを通っている。タービンを回した蒸気は、復水器で冷やされて水になり、また原子炉圧力容器“やかん”に戻って循環する。蒸気をさまして少し温まった海水は、パイプから海に戻るという仕組みだ。

■巨大エネルギー

 火力発電と同じ構造だが、熱源は核物質のウランだ。

 1兆分の1センチというウランの原子核は、中性子がぶつかると割れる。核分裂といい、その際にエネルギーが放出されて熱に変わる。これを利用している。

 1グラムのウランが核分裂すると、200リットルの風呂を4100回も沸かす熱量が得られる。石炭なら3トン、石油では2000リットルにも相当する膨大なエネルギーだ。

 ウランは合金の筒に入れて、圧力容器内の水に漬ける。焼き石を入れて鍋を沸騰させる磯料理のように、熱源がやかんの水の中にあるイメージだろう。

 圧力容器が頑丈な構造なのは、70気圧もの蒸気の圧力に耐え、核分裂で生まれる放射性物質のヨウ素やセシウムなど人体に有害な物質を閉じ込めるためだ。その圧力容器は、フラスコに似た鋼鉄製の格納容器に収まっている。

 格納容器も、高さ30メートル、最大幅20メートルの巨大な装置だ。加えて、分厚いコンクリートの建屋が格納容器を覆う。放射性物質の漏出には、何重もの壁が立ちふさがるはずだった。

■「海沿い」必須

 原子力発電所は広い敷地にある。福島第一原発の場合は、敷地面積350万平方メートル、東京ドーム75個分。これも異常事態に備え、市街地にまで放射能の影響を及ぼさないためだ。

 日本には54基の原発があるが、安全性への懸念から建設地は限られている。

 福島第一原発がある福島県の太平洋沿岸「浜通り」に10基、福井県の若狭湾には13基が集中しているが、海沿いの立地は、タービンを回した水蒸気を水に戻すために大量の冷水が必要、という事情があるからだ。

 日本には、やかんに例えた沸騰水型原子炉のほか、炉内の圧力を高め、高温の水を媒介して蒸気を発生させる「圧力鍋」のような加圧水型原子炉もある。

 国内では、東京電力などが採用する沸騰水型が30基と多いが、海外では関西電力などが稼働させている加圧水型が主流になっている。

歴史と将来見通しは

 災害に強いシステム急務

 「人類の奇跡的発明を、人類の生命のためにささげる」

 日本の原子力開発は、1953年12月の国連総会で、アイゼンハワー・米大統領が演説した「原子力の平和利用」宣言でスタートした。

 エネルギー争奪戦となった第2次大戦に敗れた日本にとって、復興のためにも自前のエネルギーは必要だった。翌54年4月、初の原子炉建設関係の予算が成立、55年に「自主・民主・公開」に基づく原子力基本法が国会を通過した。

 在米日本大使館で“科学外交官”を務め、米国の原子力技術の導入を橋渡しした向坊隆・元東大学長(2002年没)は、「米国は核兵器開発に投入した膨大な資金回収を、日本は将来のエネルギーを確保するという両者の意図が一致した」と語っている。

 56年、茨城県東海村に日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)を設立し、63年、国内初の発電用原子炉「JPDR」の発電を成功させた。この間、電気事業連合会加盟の電力会社などが出資した日本原子力発電も設立され、産官学一体となった原子力推進体制が整っていった。

 国内初の商業用軽水炉、日本原電敦賀原発1号機が運転を始めた70年、大阪開催の万国博覧会へ送電され「原子の灯」と紹介された。

 順調な<航海>に陰りが出たのは、74年の原子力船「むつ」の放射線漏れ事故で、海外では79年、米国スリーマイル島原発で炉心溶融事故が発生。86年、旧ソ連のチェルノブイリ原発で爆発事故など、原発の安全性を揺るがす深刻な事故が続いた。

 マスメディアの受け止め方も、大きく変化した。

 日本原子力研究開発機構の佐田務さん(57)は、「むつ事故までの新聞、教科書の大半は『原子の火』への期待が中心だったが、スリーマイル以降、反対の視点が増えた」という。内閣府の世論調査では、70年代まで利用に賛成が6割だったが、80年代以降は4割を下回る時代が続いた。

 しかし87年度には、日本の発電総量の約3割を賄うまでになり、高度成長、技術立国化を支えた。高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故(95年)、核燃料加工会社「JCO」で臨界事故(99年)も起きたが、温室効果ガスの排出抑制という動きに伴い、排出量の少ない原発の活用見直しが世界的に進んでいた。

 こうした時期に、今回の事故は発生。津波被害で原子炉は冷却手段を失い、水素爆発や核燃料棒の一部溶融など事故は連鎖的に拡大した。放射性物質の放出を食い止め、周辺環境の汚染をどう回復させるか、溶融した核燃料棒は取り出せるのか――数年がかりの課題が積み上がった。

 世界は「フクシマ」後の原子力利用をどう見ているのだろうか。ドイツなど反原発の市民運動は高まりを見せているが、メディアの論調は冷静だ。米ニューヨーク・タイムズ紙は「米国の原発も非常用電源の拡充を図るべきだ」、英オブザーバー紙も「人類の主要なエネルギーとして残る」と、災害を克服する意志を示している。

 元原子力安全委員長の松浦祥次郎・原子力安全研究協会理事長(75)は、「これからも原子力を活用するなら、これを教訓とし、より災害に強いシステムを整える必要がある。エネルギーをどう考えるか。我々利用者も考え、判断することが求められている」と話す。

行政のしくみは

 原子力安全委に強い権限

 原子力エネルギーは、どんな役所や組織が担ってきたのだろうか。

 長期的な視野で原子力の開発・利用計画を立案する司令塔は、「原子力委員会」。首相が任命した5人の委員と54人の専門委員らで構成され、10年先までの行政の基本方針となる原子力政策大綱を作る。

 原発の安全規制を担うのは「原子力安全委員会」だ。原子炉や耐震構造などのエキスパート約400人を抱える。事故への対策や放射性物質の拡散範囲を予想、首相に助言もできるなど、強い権限を持つが、今回は情報発信力の弱さが目立つ。

 本来なら専門家集団として事故の概要を説明し、国民の不安を解消する役目を担うが、記者会見を開いたのは、事故から12日後の23日で、「信頼できる情報を発信できていない」などと批判された。

 一方、経済産業省には、運転中の原発を監督する原子力安全・保安院があり、商業用原発などを定期検査している。今回のように、緊急事態が発生すれば、首相が「原子力緊急事態宣言」を出し、自らをトップとする原子力災害対策本部を設置する。また、高速増殖炉「もんじゅ」を開発する日本原子力研究開発機構など次世代炉の研究を進める組織があり、これらの外側に電力会社、原子炉の製造メーカーなど、多種の企業が存在し、巨大なネットワークで原子力を支えている。

2011年4月1日  読売新聞)


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