「ニーチェの馬」(ハンガリー、仏、スイス、独)
世界崩壊 モノクロで
冒頭、怪物のような馬が荷車を引っ張り、全身を震わせて道を行く。モノクロ場面は、長回しで延々と続く。
カメラはただ事象を追っているのではない。計算し尽くされた動きを感じさせる。馬の体が放つ熱気や、空気の震え、生き物のなまめかしさまでが、強烈に伝わってくるのだ。これほど実在感のある場面は、ほとんど記憶にない。
ハンガリーの名匠、タル・ベーラの新作だ。タイトルは、「神は死んだ」と宣言した19世紀末の哲学者ニーチェの、真偽不明だが有名なエピソードによる。イタリア・トリノの広場で疲弊した馬車馬を見つけたニーチェは、突然駆け寄り、首を抱いて泣いた。そのまま精神は崩壊し、正気に戻らなかったという。
映画にニーチェは登場しない。描かれるのは「その後」だ。馬は飼い主(デルジ・ヤーノシュ=写真左)と共に、荒野の一軒家に戻る。それ以降、動こうとせず、食べようともしない。飼い主は仕事に出ることができず、娘(ボーク・エリカ=同右)との砂をかむような日常が繰り返される。その中で、やがて世界の崩壊が暗示される。
猛烈に吹き荒れる風の中、娘は毎朝、井戸まで水をくみに行く。ワンカットで繰り返し描かれる、その場面がすさまじい。映画にはストーリー、役者の演技、音楽など、様々な要素があるが、ここまで描写の力が突出した作品は珍しいだろう。映画の本質が「何を映すか」ではなく、「どう映すか」だとしたら、この作品は、それを極めようとしているように思える。
描写の力は、モノクロフィルムの独特の質感によるところが大きい。映画は夢と似ているが、モノクロ画面は色を想像するという点で、より夢に近い気がする。フィルムの階調の豊かさも、夢の生々しさにつながっているのではないか。
神を殺害したニーチェがその「呪い」で狂気に陥ったように、ここまで描写を極めれば、「呪い」も降りかかる。これを最後に、タル・ベーラは映画作りをやめるという。モノクロフィルムで映画を作ることが極めて困難になった状況が、彼を世界の終わりへと追い込んだのだろう。
この映画は、モノクロフィルムという、崩壊を迎えつつある豊かな世界に、タル・ベーラ監督がささげた壮大なレクイエムである。
2時間34分。渋谷・シアター・イメージフォーラム。(小梶勝男)
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