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[挑む]陸上 野口みずき(33)シスメックス

(上)3年半のどん底糧に

氷点下に冷え込んだ朝、「こんなに寒いのは初めて」と笑った(米コロラド州ボルダーで)

 ふぅー、と真っ白な息を吐き出して、ほほ笑んだ。「陸上を始めて20年ですけど、こんなに寒いのは初めて」。今月29日の大阪国際女子マラソンに向けた高地合宿のため、昨年12月初旬に訪れた米コロラド州ボルダー。標高1600メートルを超すとはいえ、記録的な寒さと大雪に見舞われていた。

 朝練を始めた午前7時の気温は氷点下13度。走っても汗が出ない状況さえ、楽しんでいた。「色々と経験したようで、初めてのことってあるんですね。やめずに続けてて、よかったな」

 2001年の世界選手権前以来となる小川沿いを駆けるたび、「10年で私は変わった」と痛感する。

 04年アテネ五輪で世界の頂点に上り詰めた。ところが、連覇を期待された北京五輪は直前に左太ももを痛めて欠場し、どん底にたたき落とされた。

 アテネの記憶が甘美な分だけ、北京での絶望は底が深かった。欠場が発表された日、逃げるようにチームが合宿を張る札幌に飛んだ。罪を犯したかのように人目を避け、表舞台から姿を消した。

 それから、人前で北京五輪の話をするたびに号泣した。左脚に痛みを感じていたのに無理を続けて故障したことを悔い、「連覇の重圧で余裕を失い、五輪代表という重責を果たせなかった。競技者として甘い」と己を責めた。「ファンを裏切った」という罪悪感にさいなまれた。

 かばうようになった左脚の筋力は落ち、ウエート練習では、左脚は右脚の3分の1も上がらなくなった。深夜に「明日、引退する」と決め、目が覚めると「まだ終われない」と思う。約2年、そんな袋小路に迷い込んでいた。

 それでも執念でリハビリに取り組み、駅伝で実戦復帰した10年12月、またも故障に見舞われた。全日本実業団対抗女子駅伝を走った直後、左足甲の骨折が判明した。「神様か誰かが、もうやめろと言っているんです。もうやめます」と、監督の広瀬永和(ひさかず)(46)に泣いて訴えた。「お前が引退するなら、俺も陸上界から身を引く。やめるという言葉はそのくらいの覚悟で言え」。監督の説得でようやく思いとどまり、今にたどり着いた。

 東の空が朝焼けに染まる。雪をかぶったロッキー山脈を見つめながら、これまでの年月を思う。「この3年半の苦しみを思えば、これから何が起きても耐えられる。そう思う」(敬称略)

 ◇のぐち・みずき 1978年生まれ。三重県出身。宇治山田商高(三重)から実業団に進んで頭角を現し、2002年名古屋国際女子で初マラソン初優勝。03年世界選手権パリ大会で銀メダルを獲得し、アテネ五輪では日本女子2人目の金メダルに輝いた。05年のベルリンで2時間19分12秒の日本記録を樹立。フルマラソンは6戦5勝。1メートル50、40キロ。

2012年1月11日  読売新聞)

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