手塚と石ノ森、2人の天才
石ノ森章太郎さんに初めて会ったのは、もう30年近く前になるだろうか。最初は、何かのパーティー会場で名刺を交換しただけだったが、長い間、憧れていた作家の一人だっただけに、うれしくてならなかった。帰宅して、妻に「きょう、石ノ森さんに会ったよ」と自慢げに報告したぐらいだ。ところが、妻は、同年代ながら、マンガにほとんど興味がない。(それ、だれ)といった様子で怪訝(けげん)な表情を浮かべる。いかに、彼が、すごい作家であるか、懸命に説明すると、ようやく「手塚さんと比べてどうなの」という。
その質問に、少しばかり戸惑った。確かに、手塚治虫という作家は日本のマンガ史上に燦然(さんぜん)と輝く天才である。だが、石ノ森章太郎という作家も天才という点では、双璧というべき存在であった。だからこそ、手塚さんは彼に対して、嫉妬に近い感情を抱いたのではないだろうか。
昭和42年、手塚さんが創刊した雑誌に、石ノ森さんが発表した「ジュン」は、当時、独創的な表現手法が話題となった。たが、手塚さんは、その実験的な作品に対し「あれはマンガじゃない」と批判。ショックを受けた石ノ森さんは執筆の中断まで考えたが、その後、手塚さんが謝罪して和解したという出来事である。
石ノ森さんとは、その後、さまざまなことで話をうかがう機会があった。ある時、この事件について水を向けたことがある。
「あの人は天才だからね」と、苦笑いを浮かべながら、一言。それだけしか語ってくれない。 だが、なるほど、と納得した。天才であればこそ、石ノ森さんの天才性を一番理解していたのは手塚さんであろうし、それに対するライバル意識が表に出たのが、この出来事であったのだろう。
後に、石ノ森さんが「萬画家」と名乗るのも、萬(よろず)の事柄を画くという意味ももちろんだが、先行の「天才」の影響の強い「マンガ」や「漫画」との決別の意もあったのかもしれない。
その「萬画家」を記念し、故郷に近い宮城県石巻市に設立された「石ノ森萬画館」も、今回の東日本大震災で被災、現在、休館中だという。地域おこしの一拠点として人気の施設だっただけに、残念でならない。関係者などの懸命の努力が続けられているというが、一刻も早い復旧・再開を願わずにはいられない。
吉弘幸介:読売新聞東京本社記者。文化部で10年余マンガなどを担当した。
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