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現場では「男の約束」

宮本洋一(みやもと・よういち) 清水建設社長 64歳

 〈建築デザイナーとして限界を感じ、現場に〉

 建築デザイナーにあこがれて大学の建築学科に進みましたが、友人の見事な設計図をみて「太刀打ちできない」とあきらめました。

 現場で建物をつくろう。そう考えて就職を決めたのですが、母は「お前に勤まるのか」と不安げでした。入社当時は色白で、1メートル81の長身なのに体重は57キロ。ほおはこけてやせていました。現場じゃ無理だな。いつまでもつかな。入社した私を見て、上司はそう思ったそうです。

 <現場で学ぶ>

 確かに現場には色々な人がいます。けんかっぱやい人や、荒っぽい人も少なくありません。すごい所に来てしまった。最初の実感でした。

 仕事もうまくいかないことのほうが多い。

 特に職人さんは自分の仕事に誇りを持っています。工事中の設計変更も簡単ではありません。「お金はちゃんと払う」と言っても、「そういう問題じゃない」と簡単には納得してくれません。現場では“男の約束”を果たすことが大事なのです。

ストレスで…

 宮本とは仕事をしない。入社4年目、神奈川県の現場で30歳代半ばの血気盛んな職長を怒らせたことがあります。鉄筋をつなぐために来てもらったのですが、段取りが悪く作業に入れなかった。言い訳がましいことを言ったことが逆鱗(げきりん)に触れたのです。

 上司からもさんざん怒られました。私の指示のミスで、1回打ったコンクリートを一部壊さなければならなくなりました。業者を呼ぶと、上司は「そんな金はない。すぐに返せ」。自分で工具を使って壊すしかありません。それを見ると今度は「お前を雇ったのはそんな仕事をさせるためじゃない」とどなられる。

 ストレスで胃潰瘍になったこともあります。周囲と呼吸を合わせながら現場を動かせるようになるまでに5、6年はかかったでしょうか。

 〈工期を守る〉

 工期は何が何でも守るのが清水建設の伝統です。地方のデパート建設を請け負ったときは時間が足りず、東京から何百人も作業員を送ってやっと間に合わせたこともあります。

入居前日完成

約22年前 工事長を務めた東京都庁第一本庁舎の建設現場で

 1983〜84年には、東京・杉並区で女子大の学生寮を新築する現場を任されました。年度末の繁忙期で、どうしても人手が足りない。床を張る仕上げができる職人が見つからなかったのです。その年は何度も大雪が降って工事が遅れていました。それでも4月1日には新入生が来てしまう。

 知人に片っ端から電話を入れました。最後に、かつて一緒に仕事をした長野県の内装会社にダメもとで頼み込んだところ「2人なら出せる」と言ってくれました。3月31日、ギリギリで工事を終えた時の感謝の気持ちは今も忘れられません。

 運悪く事故が続くこともありました。真夜中の現場で塩を盛り、一人で安全を祈ったことも一度や二度ではありません。

 〈石橋をたたきながら渡る〉

 約25年は現場一筋でしたが、97年に耐震営業推進室長になりました。営業は文系出身者が大半で、私には青天のへきれきの異動でしたが、全国を飛び回りながら「現場」だけで会社が成り立っているわけではないことも知りました。

 清水建設は良くも悪くも慎重な社風が伝統です。海外展開でも出遅れました。国内では公共事業も減っており、これからは海外での仕事も増やさなければなりません。石橋をたたきながらでも渡る、堅実さと積極さを併せ持った経営が必要です。

 これからは震災復興も本格化します。国土を守ることはゼネコンの使命です。現場を原点に社会に貢献する。会社の棟梁(とうりょう)としての責務を果たしていくつもりです。(聞き手 西原和紀)


(略歴) 1947年、東京都生まれ。71年東大工卒、入社。98年に幹部への登竜門とされる名古屋支店副支店長に。九州支店長、専務などを経て、2007年6月から現職。株主総会後は全国の支店や本社の各部署を回る。20回以上開いた従業員との懇話会では「無礼講」で直接質問を受ける。

《こんな会社》

 ゼネコン(総合建設会社)大手。1804年(文化元年)、越中富山の宮大工だった初代・清水喜助が江戸神田鍛冶町で創業。1948年「清水組」から現社名に。海ほたるパーキングエリア(千葉県)やモード学園コクーンタワー(東京都)などを手がけた。2011年3月期の連結売上高は1兆3037億円。従業員数は1万1215人。

2012年1月27日  読売新聞)

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