よみうり入試必勝講座 WITH代々木ゼミナール




2009年6月号
問題解答作成のヒント解答例PDF(全ページ)
 
 第3回目の小論文講座を始めましょう。第1回は地球環境問題、第2回は臓器移植問題と、けっこう重いテーマが続きました。なんだかハードだなと思われたかもしれません。今回はもう少し軽めのテーマで小論文について考えてみることにします。

発想について

 今回の講座のテーマは「発想」です。テーマや課題文を与えられて、その資料を自分なりに理解することはなんとかできる。でも、それについて自分の意見を書けといわれると、何も浮かんでこない。そういう経験をした人も多いのではないでしょうか。

 課題文型の小論文ではよくこういうことが起こります。課題文をじっくりと読む。そこにはユニークな視点から興味深い内容が述べられている。「ふーん、なるほどなあ」、「たしかにそういうことっていえるよなあ」。あなたは感心する。さて、自分の意見を書こうとする。でもその意見が出てこない。無理して書こうとすると、いつのまにか課題文をただなぞっただけの文章になってしまう。そこには自分のオリジナリティのある意見が書かれていない。

意見形成のイメージ

 どうしてこういうことが起こるのでしょうか。

 私は課題文型の小論文で自分の意見を作ることを、次のようにイメージしています。

 それは「生命誕生」のイメージです。

 生まれる前、私たちは母親の胎内で保護され、栄養を与えられ、成長を続けます。やがて一定の時期に達すると、母親の胎内から大きな叫び声をあげながら外の世界へ出てきます。これが生命誕生の瞬間です。

 小論文でも同じことが起こります。その場合、母親の胎内に当たるものが「課題文」です。課題文の内容を注意深くていねいに読むことによって、われわれはそこから栄養分を吸収します。「なるほどなあ」「たしかにそういうことっていえるよなあ」と感心している段階がそれに当たります。これは自分の意見を作るためには欠かせないプロセスです。

 でもいつまでもそこにとどまっていては、外の世界に出ていくことはできません。たしかに母親の体内はあたたかく、安全で、居心地がいいでしょう。でも、いつかはそこから外へ出て、ひとり立ちしなければならない。

 お腹の中の胎児は、ただじっとしているわけではありません。成長にしたがって、手足を動かし、誕生の瞬間には大きな泣き声を上げて、自分がここにいるということを強烈にアピールします。自分の意見を「生む」ためには、生まれようとする意欲と、それに伴う具体的な行動が必要なのです。


対話することの意味

 では、小論文では具体的にどのような行動をとればいいか。それは「対話」ではないかというのが私の考えです。

 友だちとおしゃべりしているところを想像してみてください。友だちがとってもおもしろい話をしたとする。「へー、そうなんだ。それっておもしろいね」。あなたはそう言う。さて、その後、どうしますか。

 沈黙するでしょうか。普通はしませんね。友だちもあなたに「おもしろい」って言ってもらって悪い気はしないでしょうが、その後、じっと黙り込まれたのでは困ってしまいます。ほんとはあんまりおもしろくなかったんじゃないかと思うかもしれない。これでは対話になりません。おまけに友人までなくしてしまいかねない。そうならないためにはどうすればいいか。

 もし自分にも同じような経験があれば、それを話すかもしれません。それで話題は盛り上がる。あるいは自分の経験ではないけれども、誰か他の人の経験を紹介するかもしれない。あるいは友人の話の中で、友人が気づいていないおもしろい箇所を指摘する。そういうこともあるでしょう。

 要するに、友人の話を自分なりに受けとめて、ボールを友人に投げ返す。さらに友人からボールが戻ってくる。そうすることによって対話が成立するわけです。キャッチボールのようにボールをあちらからこちらへ、こちらからあちらへと移動させること、それは小論文にも必要な「行動」なのです。

 課題文は出題者からあなたへ投げられたボールです。まずそのボールを体の中心でしっかりと受けとめる。そのためには読解力も必要だし、最低限の基礎知識も要求されます。

 そして、次はそのボールを出題者へ投げ返す。これが課題文の内容を踏まえたあなた自身の「意見」となるわけです。

 課題文を読んで感心はするんだけど、自分の意見が出てこない。これは相手からボールを受けとったまま、投げ返さないでじっとしている状態を意味します。

 「そりゃあ、自分でもボールを投げ返したいのはやまやまなんだけど、投げ方がわかんないんだよ」

 あなたはそういうかもしれない。なるほど。投げ方がわからない。じゃあ、友だちと話をする時にはボールをどうやって投げ返してますか。

 「うーん、そんなのあんまり考えたことないなあ。なんとなく返事をしているだけだと思うけど」

 そうですね。ほとんど無意識のうちに返事をしている。でも、そこにはある運動法則が働いているのではないかと私は考えます。その運動法則を簡単にいうと、次のようになります。

 「それって、あれじゃない?」「それって、これじゃない?」

 友だちとの会話でこういうせりふって出てきませんか。

 「あなたがいま言ったその話って、あの話に通じるところがあるんじゃない?」

 「あなたの話って、私のこういう経験に似てない?」

 こう口にする時、あなたは友だちの話を聞いた上で、その話と自分の考えや経験との接点を探っているのではないでしょうか。

 「それって、あれ?」「それって、これ?」

 この「それ」と「あれ」が結びつき、発展していくことで、二人の会話は大いに盛り上がります。小論文でも同じです。この場合、「それ」に当たるのは 課題文です。「あれ」や「これ」に当たるのがあなたの意見です。

 「あなたが書いている『それ』って、要するに私の考える『これ』に近いんじゃないかな?」

 「あなたの言う『それ』って、私なりに考えると『あれ』のことなんじゃないかな?」

 こう問いを返した瞬間に、出題者とあなたの間に「対話」が始まり、考える作業が始まるわけです。


問題を作ること

 そして、この返事の最後に「?」がついているのも重要です。

 胎児は母親の体内から外へ出るときに、手足をばたつかせ、大声で泣きます。

 同じように、課題文型小論文において、自分の意見を外へ出すためには、クエスチョンマークを最後につけることが必要です。

 それも課題文と無関係な「?」では意味がありません。課題文の内容を踏まえながら、それにもとづいて自分の問題を作る。その問題を解くことによって、自分の意見が生まれてくる。要するに、課題文に呑み込まれてしまって自分の意見が出てこないという人は、 課題文にもとづいて自分なりの疑問、問題を作ることができていないということなのです。

 「それって、あれだよね?」「それって、これに近いよね?」

 こう考えることで、課題文の「それ」から、あなたの意見である「あれ」や「これ」が生まれてきます。後は、「なぜか(=WHY)」、「なにか(=WHAT)」、「どのように(=HOW)」という疑問文と組み合わせて、自分の考えを発展させていけばいいわけです。

 これが小論文で自分の意見を作るための基本です。

 「それって、あれ?」「それって、これ?」

 課題文を読みながら、こころのなかでこうつぶやく習慣をつけることが、自分の意見を作る上ではとても大切です。

 それでは、頭のなかでそうつぶやきながら、次の問題を読んでみてください。


問題
次の文章を読んで、文中に示されている「希望」の定義(「具体的な『何か』を『行動』によって『実現』しようとする『願望』」)に対するあなたの考えを句読点とも1000字以内で述べなさい。

「暗闇体験 希望を紡ぐ4つの柱」

 東京中央郵便局の建物が一部保存される見通しだが、外壁だけでなく内部の雰囲気も残してほしいものだと思う。はじめて足を踏み入れた40年前の印象が、今も強く残る。黒大理石張りの柱のせいか空間そのものがほの暗く感じられ、そこに規則正しく四角形を連ねた窓から光が差し込んでいた。
 明るさと暗さが織りなす空間美は忘れられない。思えば、昼も夜もこうこうと明るい今とは異なり、街にも屋内にも、明暗がくっきりと存在していた頃だった。
 意図的に作られた暗闇を体験する催しが、若い世代を中心に人気を集めている。目隠しをして食事をしたり、真っ暗な会場内を歩いたり。もともと欧州で広がった試みで、視覚障害への理解を広げる、視覚以外の感覚を呼び覚ますなど狙いはさまざまだ。
 いくつかに参加してみた。「クラヤミ食堂」では、目隠しをして見知らぬ客同士がテーブルにつく。グラスや皿の位置を教え合い、協力して料理を回す。においをかぎ、味や食感を試し、「何でしょうね、これ」などと意見を交わす。
 視覚が遮断されると、音や感触が多くの情報を内包していることに気づく。人とのかかわり方も変わる。相手を名刺や外見で判断しない。言葉を尽くして対話する。他人に対して寛容になり、内省的で穏やかな気持ちも生まれた。
 「クラヤミ食堂」は、2007年秋から季節ごとに開催されており、計1000人余りが参加している。企画する博報堂こどもごころ製作所の軽部拓(かるべひろむ)さんは、「子供のような好奇心、五感の豊かさ、人とのつながりなど、社会が失いつつあるものを回復するきっかけになれば」と話す。
 食後、参加者はペンを渡され、目隠しのまま、心に浮かぶことを紙に書く。後日、一人の参加者のものを見た。星の絵に「HOPE(希望)」と書き添えてあった。
 東京大学社会科学研究所は2005年春から「希望学」という研究プロジェクトを行ってきた。今月開かれた成果報告会で、同研究所教授の玄田有史さんは、「先が見えないから面白い」「まだ見えていないものがあるはず」という想像力によって、不安は希望に変わると話した。
 希望とは何だろう。希望学プロジェクトでは議論を重ね、こんな定義をまとめた。「具体的な『何か』を『行動』によって『実現』しようとする『願望』である」
 「『希望を持て』と声高に叫ぶより、この四つの柱を丁寧に解きほぐし考えていくことで、希望がみつかる。それは私にとっても発見でした」と玄田さんは言う。
 記憶にある東京中央郵便局の窓から注いでいた日差しは、右肩上がりの高度成長期、子供も大人もあまねく浴びていた「希望」という光だったのかもしれない。
 今は光が外から差し込む時代ではない。ただ、「四つの柱」を一人一人が具体的に考え、希望を紡ぎ出していくことは可能だ。あすから4月。心躍るスタートばかりではないだろうが、暗闇が教えてくれることもあるはずだ。
(生活情報部 福士千恵子)
(読売新聞2009年3月31日(火)朝刊)
 
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